2020年6月18日木曜日

ハルノート云々は教育の失敗

 前回の記事
日米は戦争せずに「脱植民地」で協調することが可能だった
 で書いた通り、日本がアメリカと戦争する事になったのはルーズベルトが打ち出した植民地の自由市場化・共同管理システム(後に「国際連合」と呼ばれる)に日本が「実現しないだろう」と賛同しなかったからである。
 
ルーズベルト政権が日本に出したハルノートはルーズベルトの脱植民地政策の一部を表現したものにすぎず、彼の政策ーつまり国際連合という植民地の共同管理システムーに日本が賛成協力しなかったことが日米太平洋戦争の本質なのである。

アメリカがハルノートや大西洋憲章で日本に提案していたのは
・中国の植民地化をやめて日米の自由貿易を推進しよう(最恵国待遇)
・将来的には全世界の植民地を解体して自由市場にしよう(国際連合・GATT)
というものであり植民地を持たぬ者ー日本として国益にかなうものばかりであった。

しかるにハルノート陰謀説や自衛戦争説は完全な的外れであり、そういった言説が出てくるのは日本の教育の失敗と言える。日本が受け入れるかどうかを検討すべきはハルノートではなく、大西洋憲章を含めたルーズベルトの戦後構想そのものなのだ。

国際政治を理解する上で重要なのは、植民地大国イギリスの覇権に自由貿易主義のアメリカと新興植民地主義国である同時に日本が挑戦する形になったという事実であり、盧溝橋事件でどっちが先に開戦したとかソ連のスパイの陰謀がどうこうはミクロの話であって誰が覇権を握るかというマクロに殆ど影響しないものだ。

日米は戦争せずに「脱植民地」で協調することが可能だった

旧来、文明の遅れた非工業国は植民地として工業国に支配され経済を不平等にコントロールされるのが通常であった。産業革命以来、イギリスやフランスは「帝国」として全世界に植民地を有しており世界は半独占的な経済システムで構成されていた。ところが19世紀末に台頭してきた新興国であるアメリカの打ち出した「門戸開放」による中国進出が後に世界の貿易システムを根底から作り変えることになる。

1922年、アメリカが中国と列強に対して締結させた「九カ国条約」は
・中国市場の門戸開放(自由競争)
・中国の領土や主権の保全(民族自決)
を謳っており、従来の独占的・支配的な植民地システムとは一線を画するものだった。

1931年、植民地を持たざる者である日本が満州事変を起こして中国大陸の植民地化を始めた。アメリカや国際社会はこれが九カ国条約違反であるとして日本に警告する。

1941年、植民地の取り合いが第二次大戦を引き起こすと危惧していた米大統領ルーズベルトによって全世界の植民地を解体して自由市場として先進国が共同管理する構想が打ち出される。このシステムこそが戦後の「国際連合」であり、中国に対する九カ国条約の自由競争・共同管理システムを全世界へ発展させたものなのだ。

同年、日本はこの提案を拒否して東アジアに独自の経済圏を建設する事を表明し日米戦争に突入する。ルーズベルトの「国際連合」が誰でも参入できる開かれた市場であるのに対して日本の「大東亜共栄圏」は宗主国である日本がマーケットを独占するという従来型の「帝国」に過ぎなかった。

→ 敗戦後、アメリカの指導で憲法改正が行われたが憲法前文に「自国のことのみに専念して 他国を無視してはならないのであって」の一文が入れられたのはこれによる。

ただ、ルーズベルトの「国際連合」は植民地の争奪戦争を終わらせる素晴らしいアイデアであったが、イギリスやフランスが植民地をタダで手放すとは考えにくく、日本が「実現しないだろう」と考え拒否してしまったのも無理からぬものがある。実際、後発の植民地主義国である日本やドイツが先発の英仏を戦争により弱体化させ、既存の植民地維持を困難にさせたのがルーズベルトの「国際連合」方式への移行を加速させる一因になったことは否定できない。その点を強調すれば日本に対する先の大戦の非難は幾分和らぐかも知れない。

ルーズベルトの「国際連合」方式は自由競争で新たな市場を獲得したいアメリカと植民地を持たぬ者である日本にとって利益が合致するシステムであり、日本はアメリカと戦争せず協力して脱植民地の時代を作っていく選択肢もあったのである。

以上